『張紘』より 張紘(ちょうこう) 中国後漢末期の官吏。本項で解説する。 中国明の武官。嘉靖35年、倭寇が黄浦を犯した際に戦死した。(世宗紀)張 紘(ちょう こう、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家、学者。字は子綱。揚州広陵郡の人。子は張靖・張玄。孫は張尚。孫策・孫権に仕えた。『三国志』呉志に伝がある。 生涯 若い頃、都に出て学問を修めた。その後、故郷に戻り、太守の趙昱から孝廉に挙げられ、茂才に推挙された。三公の役所から招聘を受けたが出仕しなかった。 戦乱を避けて江東に移住した。後に孫策が挙兵したとき、初めて仕官した。孫策は上奏して正議校尉に任命した。孫策の丹陽討伐に従軍し、このときに孫策が陣頭で指揮を執ろうとしたため、「総大将たる者が最前線に立つべきではない」と諌めた。 張昭や同郷の秦松・陳端と共に、孫策の参謀として仕えた。張昭と張紘のうち、どちらかが随行するときは、必ずもう一人が留守を守ったという(『呉書』)。呂布が徐州牧となると、張紘を茂才に推挙して呼び寄せようとしたが、張紘は呂布を嫌悪しており、また孫策も張紘を引き留めたいと思っていたため、孫策が代わって呂布に断りの手紙を書いて送ったという(『呉書』)。
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