張 昭(ちょう しょう、156年-236年)は、中国後漢末期から三国時代の呉にかけての政治家。字は子布。諡は文侯。徐州彭城国の人。子は張承・張休・他一名。孫は張震。曾孫は張闓。玄孫は張混。甥は張奮。 若き日 若い頃から学問に励み、隷書に巧みで、智謀に長けていた。白侯子安という人物から『左氏春秋』を教授され、その他広く書物を読んだ。やがて王朗・趙昱と並んで高い名声を得て、互いに親しく交友した。 20歳前後で孝廉に推挙されたが、都に出仕しなかった。王朗と旧君の諱についての議論を交わし、陳琳ら同郷の人々の注目を集めた。その議論は『風俗通』という書籍に記録されていたという。 陶謙から、官途に就くよう茂才に推挙されたことがあるが、張昭はこれを拒絶した。そのため、陶謙にこれを恨まれて投獄されたが、趙昱の弁護によって助けられた。 後に陶謙が死去すると、張昭は陶謙のために弔辞を書いたという(「陶謙伝」が引く『呉書』) 孫策に仕える 董卓の専横などで中央が乱れると、その混乱を避けて江南に移住する。
ウィキペディアより