趙 範(ちょう はん、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。 桂陽太守。『三国志』においては韓玄・金旋・劉度と同じく、侵攻して来た劉備軍に降伏した。劉備軍の趙雲に亡き兄の妻樊氏を薦めた。しかし、趙雲は周りの者に「趙範は追い詰められて下っただけだ。また天下にも女は少なくない」と言って、拒否した逸話が残る。 後に、趙範は曹操の下へ逃亡した。 演義での趙範 小説『三国志演義』においては、趙雲との関係で様々な脚色がなされている。趙雲と遠縁で、同じ常山郡真定県(現/河北省石家荘市正定県)の出身ということにされている。 荊州南部4郡の占拠を狙う劉備軍に対し、鮑隆・陳応の二人の将軍を差し向け一旦は対抗したものの、大敗し降伏する。このためその後、同姓の誼ということを利用して趙雲と義兄弟の契りを結び、親交を深めるため自分の嫂を譲ろうとしたが、逆にそれが元で関係が険悪となり、趙雲から袋叩きにされてしまう。
ウィキペディアより