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陳琳 孔璋

  • 人物番号: 0699
  • 姓 名 : ちん りん
  •  字  :  孔璋 こうしょう
  • 出身地 : 広陵郡こうりょうぐん
  • 生没年 : ? ~ 217
  • 性 別 : 男性

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陳 琳(ちん りん、? - 建安22年(217年))は、中国後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。揚州広陵郡の出身。 はじめ何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図り諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの前、袁紹が中原全土に配した曹操打倒の檄文を書いた。曹操は、この檄文を読み「ここに書かれた曹操という人物像を考えると、読んだわし自身も怒り心頭に発する」と評している。 鄴城が陥落し、曹操の前に引き立てられた際、陳琳は曹操にこの檄文を読まされた。その内容は曹操のみならず、その父や祖父までをも痛烈に批判するものだったが、曹操はこの檄文を誉めた上で「なぜわしの祖父や父まで辱めたか」と尋ねた。陳琳は「引き絞った矢は射ぬわけにはいきませぬ」と答えたため、曹操から許されたという逸話がある。 その後は曹操に仕え、建安22年(217年)に疫病に罹って病死した。曹丕は彼のことを「文章は雄健だが、やや繁雑である」と評している。 唐の呉融は「陳琳墓」なる詩を作り(全唐詩巻685)、「筆先をほしいままにし自分の利益を得たが、あの世でどの面を提げて袁公にまみえるのか」と、その変節を非難している。

ウィキペディアより

陳琳の一族
    No Data

陳琳が登場する文献
  • 1-57,1-475,1-484,2-44,2-46,2-50~51,2-79,2-389,3-294~295,3-298,3-388,3-409~410,4-30,6-345,7-20.

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