董 允(とう いん、? - 246年)は、中国三国時代の蜀漢の政治家。字は休昭。父は董和。孫は董宏(晋の巴西太守)。『三国志』蜀書に独立の伝がある。 章武元年(221年)、劉備が即位し、劉禅を皇太子に立てると、その側近(太子舎人、次いで太子洗馬)として抜擢された。建興元年(223年)、劉禅が即位すると、黄門侍郎に任じられた。 建興5年(227年)、諸葛亮は北伐に先立って奏上した出師表の中で、費禕・郭攸之と共に董允の名を挙げ「政治の規範・利害を斟酌し、進み出て忠言を尽くすのは彼らの役目です。宮中の事柄は全て彼らにご相談ください」などと述べた。諸葛亮は次いで費禕を参軍にしたいと要請した。このため代わりに董允が侍中・虎賁中郎将に昇進し、近衛兵の指揮を任された。 費禕が北伐の随員となり、また郭攸之も大人しい性格であったため、諫言するのは専ら董允の役割となった。劉禅がいつも、美人を選び後宮を満たしたいと望んでいたが、董允は「古代にあっては天子の后妃の数は十二人に過ぎません。
ウィキペディアより