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陶謙 恭祖

  • 人物番号: 0716
  • 姓 名 : とう けん
  •  字  :  恭祖 きょうそ
  • 出身地 : 丹陽郡たんようぐん
  • 生没年 : 132 ~ 194
  • 性 別 : 男性

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陶 謙(とう けん、陽嘉元年(132年) - 興平元年(194年))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は恭祖。揚州丹陽郡の人。『後漢書』と『三国志』魏志に伝がある。 生涯 軍人として頭角を現す 幼い頃から好んで学問に励み、やがて太学に行った。地方に戻ると郡・州の役人となり、やがて茂才に推挙された。以後は、廬県令に任命されたのを皮切りに、幽州刺史に昇進した。 中平2年(185年)、中央に召還され議郎となり、韓遂らを討伐するため張温の指揮下で涼州に派遣された。 徐州で黄巾党の残党が蜂起したため、徐州刺史に任命され、その討伐にあたった。 勢力の拡大 初平元年(190年)、董卓に反対する義兵が近隣の州郡で蜂起したが、陶謙は事態を徐州から静観した。 黄巾の残党が再び活発化すると、陶謙が孫堅に援軍を依頼したため、孫堅軍の朱治が援軍を率いてやって来たこともあったという。 董卓の死後、李傕・郭汜が長安の朝廷を牛耳るようになると、陶謙は朱儁に太師となることを勧め、諸侯同盟の復活を目論んだが、孔融・鄭玄など一部の太守や学者の賛同しか得られず、まもなく朱儁本人が長安の朝廷への帰順を決めたため、 陶謙の目論見は頓挫した。

ウィキペディアより

陶謙の一族
    No Data

陶謙が登場する文献
  • .1-27~29,1-31,1-471,2-14,2-36,2-81,2-137,2-153,2-234~235,2-237~239,2-483,3-237,3-249,3-467,5-29,5-31,5-229,6-32,6-55,6-261~262,6-345,7-158,7-173

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