董 襲(とうしゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将。孫策・孫権に仕えた。字は元代。揚州会稽郡余姚県の人。 生涯 身の丈八尺で、並外れた武力の持ち主だった。孫策が会稽に来たとき、高遷亭で出迎えた。その時、孫策から人物の立派さを認められ、役所に入ったとき門下賊曹に任命された。 山陰において、一千人余の徒党を率いていた賊の頭目の黄龍羅と周勃の討伐に孫策が取り掛かると、董襲は二人の首を自分の手で斬った。凱旋後に別部司馬に任ぜられ、数千の兵を与えられた。後に揚武校尉となり、孫策の下で皖城攻撃に参加、さらに劉勲討伐や黄祖征伐に従軍した。 孫策の死後、孫権が跡を継いだが、孫権がまだ若かったため、それを心配した母(孫堅の未亡人)に張昭と共に呼び出され、後事を相談された。董襲は江東の地の利と孫策の遺徳、孫権の徳による人の和を強調し、万一の心配もないと大言壮語した。人々は董襲が気宇壮大なのに感嘆した。 数万人の仲間を集めていた鄱陽の不服住民の彭虎らを、淩統・歩騭・蒋欽らと共に討伐した。董襲の旗を見るだけで賊達は逃げ去ったという。十日ほどで反乱を平定し、功績により威越校尉となった。
ウィキペディアより