董 承(とう しょう、? - 建安5年(200年))は、中国後漢末期の武将。 素性は諸説があるが、一般的には献帝の祖母董太后の親族(甥)とされる。しかし、後世の史家からはその親族関係は疑問であると指摘されている。 娘は献帝の貴人(側室)。 正史の事跡 洛陽帰還行 董承は、元々董卓の娘婿牛輔の部曲であった。董卓死後、長安における権力争いの中で、具体的な事跡は不明だが、董承も身を置いていたと見られる。 興平2年(195年)7月、張済の仲介により、李傕・郭汜ら旧董卓軍の将軍たちの間で和解が成立し、献帝が洛陽へ帰還することになった時、董承は安集将軍に任命された。帰途の同年11月、郭汜が謀反して献帝を奪おうとしたため、楊定・楊奉がこれを撃ち破った。郭汜は、献帝を奪い返そうとする李傕と合流した。 その後、献帝一行が華陰に至ると、同地を統治していた段煨が一行を出迎え、献帝を自陣に迎え入れようとした。しかし、段煨と元々仲が悪かった楊定・种輯が反対し、董承も楊定に与して「郭汜の軍が段煨の兵営に入りました」と献帝に讒言したため、ついに一行は華陰を離れることになった。
ウィキペディアより