馬 超(ば ちょう、拼音: Mǎ Chāo、熹平5年(176年) - 章武2年8月(222年9月)は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の将軍。字は孟起(もうき)。諡は威侯。司隷扶風郡茂陵県の人。『三国志』蜀志に伝がある。後漢の名将馬援の子孫の出身。祖父は馬平(字は子碩)。父は馬騰。弟は馬休・馬鉄。従弟は馬岱。妻は楊氏・董氏(側室)。子は馬秋・馬承。娘は劉理の妻。父が羌族との混血であったため(『典略』)、この血を引いている馬超も漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かった。関中の独立軍閥の長の座を父から引き継ぎ、曹操に服属していたが、後に韓遂と共に曹操に反乱を起こして敗れた。一族も勢力も失い流浪した末、益州の劉備の下に身を寄せ、厚遇を受けた。
若き日
父と韓遂が義兄弟として友好関係にあったが、やがて対立して争うようになり、馬騰の妻子が殺害された。馬超も若い頃、韓遂の部下閻行に矛で刺されかけ、さらに折れた矛で首筋を殴られて殺されそうになった(『三国志』魏志「張既伝」が引く『魏略』)。このとき、曹操の命令で関中鎮定の任務を帯びた司隷校尉の鍾繇が両者の間を仲裁し、利害を説いて説得したため、馬騰と韓遂は和解した。建安7年(202年)、鍾繇の要請を受け、馬騰は曹操への援軍として馬超に部下の龐徳ら1万余の兵を率いて出陣させ、平陽で郭援・高幹を討伐することとなった。馬超は司隷校尉の督軍従事に任命され、龐徳らと共に郭援と戦った。馬超は自身の足に矢を受け負傷したが、その足を袋に包んでなおも戦い続けこれを破った。詔勅によって徐州刺史となり、後に諫議大夫に任命された(『典略』)。建安13年(208年)、韓遂と再び不仲となったため、馬騰が入朝すると、馬超は偏将軍・都亭侯に任命され、父の軍勢を引き継いだ。
潼関の戦い
建安16年(211年)3月、曹操は鍾繇・夏侯淵らに命じて漢中の張魯を討伐しようとした。この動きを見て、馬超ら関中の諸将らは自分達が攻められると疑心暗鬼になったという。この時、韓遂は張猛の反乱を鎮圧するため遠征していたが、馬超は遠征から戻った韓遂に「鍾繇は私に韓遂殿を捕まえるよう命じました。彼らは信用できません。自分は父を棄てて韓遂を父とするので、韓遂も子を棄てて自分を子と思って欲しい」と語ったという。閻行は参加を諌めたものの、韓遂は「(涼州)諸将は量らずとも意を同じくしている。これは天命である」と答え叛旗に同調した(『三国志』魏志「張既伝」に引く『魏略』)。馬超・韓遂は曹操と敵対し、楊秋・李堪・成宜ららと共に兵を挙げ、弘農・馮翊の郡県にまで呼応する者が相次いだ。このとき、蘭田の劉雄鳴は馬超に従わず撃破され、曹操の下へ逃亡している。また、京兆の学者の賈洪を捕らえて、馬超のために布告文を起草させたという(『三国志』魏志「王朗伝」)。馬超が10万の軍勢の指揮を執り黄河南岸の潼水の地に布陣したが、曹操は曹仁に潼関を防がせた(潼関の戦い)。同年7月、曹操が到着して黄河の南岸に布陣し、北岸の馬超らの軍と対峙した。曹操は徐晃・朱霊らに黄河を渡らせ、陣地を構築し梁興を破った。続いて曹操も潼関から北に黄河を渡ろうと試み、先に兵を渡河させ、曹操は許褚が指揮を執る虎士100人余りと共に殿軍となったが、馬超は騎兵一万余りを指揮してその殿軍に猛攻をかけた。その苛烈さに曹操軍は混乱し、曹操自身も許褚がいなければ命を落とすところであった。曹操軍の典軍校尉丁斐が機転を利かせて牛や馬を解き放ち、馬超らの軍を混乱させたため、曹操は渡河することができた(『三国志』魏志「武帝紀」「徐晃伝」「許褚伝」)。『山陽公載記』によれば、馬超は曹操の渡河作戦を北岸で防ぐことを主張したが、韓遂の賛同を得ることが出来なかった。この話を聞き、曹操は馬超の存在をいっそう警戒し馬氏の小僧が死ななければ、わしは葬られる土地すら無くなるだろうと語った。『三国志』「衛覬伝」に引く『魏書』によれば、潼関の戦いにおける曹操軍の戦死者は5桁にのぼったという。その後も激しい攻防が続いたが、次第に戦局が膠着し始めると、馬超・韓遂と曹操の間に会談が設けられた。馬超は己の武勇を頼みに会談の場で曹操を捕らえようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった。同年9月、涼州緒将は以前より人質を送り、割地による講和を曹操に求めていた。曹操は一貫してそれを拒絶していたが(『三国志』魏志「武帝紀」)、賈詡の進言より曹操はこれを偽って受け入れた。さらに賈詡の離間の策を用いたため、馬超は韓遂に疑念を持ち、不和となった(『三国志』魏志「賈詡伝」)。その隙を見逃さなかった曹操に攻撃されて大敗北を喫し、馬超と韓遂は逃走した。楊秋は曹操に降伏し、罪を許され厚遇された。曹操が引き揚げようとしたとき、部下の楊阜が警戒を怠ってはならないとと進言し、曹操は尤もだと考えたが蘇伯と田銀が河間で反乱を起こしていたので、曹操は帰還した。
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