歩 騭(ほ しつ、? - 247年)は、中国三国時代の呉の武将、政治家。字は子山。子は歩協・歩闡。孫は歩璣・歩璿。同族は歩夫人(孫魯班・孫魯育の母)。『三国志』の呉志に伝がある。徐州臨淮郡淮陰県(江蘇省淮安市)の人。『呉書』によると、歩氏は晋の大夫である楊氏に遡る一族で、歩の地に所領を持ったことから歩姓を称したという。先祖には孔子に師事したという歩叔という人物がいる。秦末漢初の動乱期に将軍となった一族が淮陰侯に封じられたため、以降は淮陰を本籍地としたという。 生涯 中央の戦乱を逃れて江東に移った。貧しかったため、若い頃に昼は瓜を売って生計を成し、夜は勉学に励んでいたという。このときに行動を共にしたのが広陵の衛旌という人物であった。あるとき生計を図るために、会稽の焦征羌(焦矯、『呉録』による)という豪族に取り入りざるを得なくなった。焦征羌が歩騭達を見下してぞんざいに扱ったため、衛旌が屈辱に憤慨したものの、歩騭は平然と応対したという。 官に就いた後、1年ほどして病気で免職となったが、親友である諸葛瑾や厳畯とともに呉郡に出て来たという(『呉書』)。
ウィキペディアより