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満寵 伯寧

  • 人物番号: 0763
  • 姓 名 : まん ちょう
  •  字  :  伯寧 はくねい
  • 出身地 : 山陽郡さんようぐん
  • 生没年 : ? ~ 242
  • 性 別 : 男性

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満 寵(まん ちょう、? - 242年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将・政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳。娘は司馬榦の妻。孫は満長武・満奮。『三国志』魏志「満田牽郭伝」に伝がある。

酷吏として出世
身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に山陽郡の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞(張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為は曹操に大いに賞賛された。楊彪が逮捕された際、荀彧や孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操は楊彪を赦免した。これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人から疎まれることはなかった。

軍人として活躍
官渡の戦いの時期には、袁紹の郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。曹操の荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍を兼務し当陽県に駐屯した。孫権が国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。後に、曹仁の参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁に降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽が撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。
(続きは、ウィキペディアで)

ウィキペディアより

満寵の一族
    No Data

満寵が登場する文献
  • 1-249,1-287,1-290,3-82,3-86,3-141,3-233,3-434,4-155,4-169.

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