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楊阜 義山

  • 人物番号: 0773
  • 姓 名 : よう 
  •  字  :  義山 ぎざん
  • 出身地 : 漢陽郡かんようぐん
  • 生没年 : ? ~ ?
  • 性 別 : 男性

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楊 阜(よう ふ、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の武将、政治家。魏に仕えた。字は義山。涼州漢陽郡冀県の人。父と子の名は不明。孫は楊豹。従弟は楊謨・楊岳。外兄は姜叙。『三国志』魏志に伝がある。

涼州に仕える
若い頃、同郡の尹奉や趙昂とともに名を馳せたという(『魏略』)。曹操と袁紹が争っていた頃、州牧韋端の命により従事の資格で許都に赴き、安定郡の長史に任命された。帰還した後、曹操の勝利を確信し、その事を地元の諸将に伝えている。長史の任務が合わず辞職したが、韋端が太僕に任命され、その子の韋康が涼州刺史となると、別駕として召し出された。孝廉となり、丞相府より召された事もあったが、涼州側は上奏して留め置き、参軍とした。

涼州騒乱
潼関の戦いで曹操に敗れた馬超は西方に逃れたが、その名声により羌族をはじめとした諸蛮族を掌中にし、再起を図っていた。この時、楊阜は曹操に対し韓信・黥布の例に擬えて、馬超の攻撃に対応する防備を厳重にするよう進言した。だが、同時期に河間で蘇伯らの反乱があったため、曹操は兵を引き揚げてしまった。その後、馬超は隴上への侵攻を開始し、冀城を除く諸県が馬超に呼応した。冀城には韋康や諸郡の太守らが拠ったが、間もなく馬超は1万の兵を率いて冀城を攻撃した。漢中の張魯も馬超に援軍として楊昂を派遣していた。楊阜は城内の士大夫の子弟の内から、戦争ができる者を1000人ほど集めて即席の軍隊とし、従弟の楊岳に城壁の上に偃月の陣を敷き馬超に抵抗させた。8ヶ月程抵抗したが援軍はやって来なかった。韋康は閻温を援軍の使者として城外に出したが、馬超に見つかり殺害されてしまった。色を失った韋康らが降参を考えるようになると、楊阜は涙を流してこれを諌めたが、聞き入れられなかった。結局、韋康らが城門を開いて馬超と和議を結ぼうとしたが、馬超は楊岳を冀城で軟禁する一方、楊昂に命じて韋康らを殺害させた。このため、楊阜は馬超への復讐の機会を窺っていた。丁度、妻の葬儀があったため、これを理由として一時的に帰郷した。まず、歴城にいる姜叙と連絡をとり、姜叙とその母の前で無念の気持ちを述べたところ、姜叙の母は強く同情し、姜叙に楊阜の馬超打倒計画に参画するよう熱心に奨めた。趙昂や尹奉といった同郷人らや、武都の人々と連絡をとり、冀城の楊岳の元にも楊謨を送り計画を打ち明けた。安定の梁寛や南安の趙衢といった有力者も同心とした。212年9月、楊阜は鹵城において姜叙と共に馬超打倒の兵を挙げた。馬超が直ちに楊阜を攻撃しようとしたが、かねての計画通り梁寛や趙衢らは冀城を襲撃し、楊岳の身柄を奪い返した上で、冀城を占拠した。この反乱で、歴城にいた姜叙の母や馬超の人質となっていた趙月(趙昂と王異の子)が馬超に殺害され(皇甫謐『列女伝』)、さらに楊阜の一族7人が馬超によって殺され、楊阜自身も重傷を負った。214年春正月までには夏侯淵の援軍を得て、馬超を撃退し漢中に放逐し、馬超が冀城に留守として置いていた妻子一族を、全て処刑したという(「武帝紀」)。隴右平定の功績により、曹操は11人の者を列侯した。曹操が楊阜を関内侯に封じようとしたが、楊阜は韋康らを守れず、馬超も殺害できなかった事を理由に辞退した。しかし、曹操が何度も位を与えようとしたため、遂に応じた。

ウィキペディアより

楊阜の一族
    No Data

楊阜が登場する文献
  • 1-251,1-392,3-128,3-477,4-113,5-179.

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