李厳(りげん) (?-234)中国三国時代の将。本項で解説する。 (?-927)中国五代十国時代の後唐の将。前蜀を滅ぼすなど大功を立て、その後も西川に駐屯したが、孟知祥の反乱時に殺害された。 李巌(?-1644)中国明末から順の将。元の名は李信。科挙に及第し、李自成に仕えた。後に牛金星の讒言で誅殺された。非実在説が有力。李 厳(り げん、? - 234年)は、中国後漢末期から三国時代の政治家・武将。荊州南陽郡の人。字は正方。後に“李平”と改名。子は李豊。『三国志』蜀志に伝がある。 劉表・劉璋に身を寄せた後、劉備に投降した。劉備にも重用され、諸葛亮とともに遺詔を受け高官に昇るも、晩年に失脚した。 生涯 若い頃に郡の官吏となり、才幹の良さで賞賛を得た。劉表に取り立てられ、郡県の長をいくつか務めた。 208年、益州との境に近い柹帰県令を務めていたが、曹操が荊州に侵攻したため、劉表死後の混乱する荊州を見限り、益州へ逃れた。劉璋にも取り立てられ成都県令となり、そこでも有能だとの評判を得た。 213年、劉璋の要請により益州入りしていた劉備が劉璋と仲違いを起こし、成都に侵攻した。
ウィキペディアより