李 典(り てん、生没年不詳)は、中国の後漢末の武将。曹操に仕えた。字は曼成。兗州山陽郡鉅野県の人。子は李禎その他1名。『三国志』魏志に伝がある。 生涯 謙虚な人物で、若い頃は武芸よりも学問を好んだという(『魏書』)。先生の下で『春秋左氏伝』を読み、様々な書物に目を通した。曹操は李典の振る舞いを好ましく思い、試しに人民を統治する職につけてみたという(『魏書』)。 従父の李乾は雄々しい性格で、食客数千家を擁して乗氏県にいたが、初平年間に曹操の挙兵に応じて馳せ参じ、寿張の黄巾賊との戦いや、袁術との争い、徐州征伐など、数々の戦いに参戦して、武功を立てた。 呂布が兗州で反乱を起こすと、曹操は李乾を乗氏県に帰還させ民心を落ち着かせようとした。李乾はそこで呂布の任命した兗州別駕の薛蘭・李封から帰順の催促を受けたが、断固として拒んだために、薛蘭・李封に殺害された。曹操は李乾の子の李整に後を継がせ、諸将とともに薛蘭・李封を追討させた。李整は兗州の諸県を鎮圧するなど武功を立て青州刺史までになった。李整が亡くなると李典が李整の軍を率いることになり、潁陰の令に転任し、中郎将に任命された。
ウィキペディアより