劉 勲(りゅう くん、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は子台青州琅邪郡の人。妻は王宋と山陽郡の司馬氏。兄が1人(名は不明)。従弟に劉偕。甥(兄の子)に劉威。『三国志』に伝はないが、各所に記録がある。 娘が一人いる。 生涯 孫策に敗れる 袁術の故吏であり、曹操とも旧知であったという(『三国志』呉志「破虜討逆伝」、『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。 中平年間には沛国建平の県長を務めていた(『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。 揚州に進出した袁術は、廬江郡を孫策に命じて攻略させたが、太守の座には孫策ではなく、自分の元々の部下である劉勲を任命した(『三国志』呉志「破虜討逆伝」)。 劉勲は皖城を本拠としていた。建安4年(199年)6月に袁術が死ぬと、劉勲は孫策を頼って落ち延びようとする、袁術軍の大将の楊弘と張勲らを捕虜とし、財宝を略奪し、その軍勢も吸収したという同じ頃、皇族の流れを汲む豪族の劉曄は、賊の鄭宝を討ってその配下を降参させて軍勢を手に入れていたが、資力などの問題から自身で軍勢を率いることを望まなかったため、劉勲に鄭宝の軍勢を預けることを申し出てきた。
ウィキペディアより