劉 虞(りゅう ぐ、? - 初平4年(193年))は、後漢の宗室(広義の皇族)。字は伯安。徐州東海郡郯県(山東省郯城県)の人。子は劉和。 幽州を統治 後漢の東海恭王・劉彊(光武帝の長男)の末裔。祖父の劉嘉は光禄勲を務め、父の劉舒は丹陽太守だった。また魏の重臣劉曄は遠戚に当たる。 初め、郯県に出仕して戸曹の役人となる。良く身を修め職務に励んだために召されて東海郡の役人となり、郡から孝廉に推挙され、朝廷に入って郎となった。幽州刺史に就任すると、異民族はその徳性に感化されて朝貢し、周辺を荒らすこともなくなって、住民はその統治を喜んだ。その後、病気になって退官し帰郷したが、郷里の人々は裁判沙汰が起こると役人のところへは行かず、劉虞に判断を仰いだ。劉虞の筋道に従った裁定に、人々は服従した。 中平元年(184年)、黄巾の乱が起こると、甘陵国の相に任命された。荒廃の傷跡深い民を慰撫し、節倹を旨に指導した。その後、中央に召し返され、尚書令・光禄勲を経て宗正に転任した。 中平4年(187年)、中山太守の張純と張挙らが、烏桓の丘力居と連携して反乱を起こした。
ウィキペディアより