劉 璋(りゅう しょう、? - 219年(建安24年))は、中国の後漢末期の群雄である。劉焉の子。家系は劉氏。字は季玉。劉瑁の弟である。 生涯 劉焉の少子(末の子)だったが、若い時に長兄の劉範や次兄の劉誕と共に、奉車都尉として長安の献帝の近侍として仕えていた。献帝は宗室の劉焉の暴走を諫めるために、劉璋を益州に派遣したが、劉焉はこれを聞かずに劉璋を二度と都に戻さなかったという。194年(興平元年)に兄劉範、劉誕が相次いで亡くなった。劉焉が病死した時に州の大吏の趙韙らは劉璋の温仁を貪らんと、共に上書して劉璋を益州刺史とした。 200年(建安5年)、自分に叛いた張魯の生母(盧氏)とその弟の張徴を見せしめのために誅殺した。 劉璋は、荊州・三輔出身の兵士である東州兵が民衆を侵害しても取り締まることができず、政令に欠けるところも多かったので、これらの事を不満に思う民衆は少なくなかった。劉璋は趙韙にこの問題を解決させようとしたが、趙韙は民の怨嗟の心を利用して、州内の豪族と手を結び謀反を起こした。
ウィキペディアより