劉岱(りゅう たい、? - 192年)は、後漢末期の兗州刺史。字は公山。青州東莱郡牟平県(山東省東部)の人。『後漢書』劉寵伝、『三国志 (歴史書) 三国志』武帝紀、程イク 程昱伝にまとまった記述がある。<br/>漢の皇族に列なる。劉岱の家統は前漢の高祖・劉邦に繋がり、高祖の孫である劉肥 悼恵王庶子の斉孝王・劉将閭の少子、牟平共侯・劉渫の直系子孫に当たる。<br/>青州平原郡般県の県令・劉本(劉丕とも)の孫で、山陽郡太守・劉輿(劉方とも)の子。また、会稽郡太守・劉寵の甥で、劉韙のおい 従子。袁術・孫策に対した揚州刺史・劉ヨウ 劉繇は弟。<br/>『後漢書』に引用された『呉志』によると、劉岱は実弟・劉繇と共に清廉で人望のある皇族兄弟として定評があり、二人を推挙した平原の士・陶丘洪は彼らのことを『若し明君をして公山(劉岱)を前に用いらしめ、後に正礼(劉繇)を擢けば、所謂長塗に二龍を御し、千里に騏驥を騁す、亦た可からずや。(もしも名君に劉岱を先に用いらせ、その後に劉繇を引き抜き用らせたならば、所謂長い道程において二匹の龍を操り、千里の道において一日に千里を行く二頭の駿馬を走らせるようなものです。なんとよいことではないでしょうか。)』と評価して言った。<br/>
ウィキペディアより