正史三国志データベース 三国検索
ホーム人名事典 > 劉備 玄徳

劉備 玄徳

  • 人物番号: 0820
  • 姓 名 : りゅう 
  •  字  :  玄徳 げんとく
  • 出身地 : 涿郡たくぐん 涿県たくけん
  • 生没年 : 161 ~ 223
  • 性 別 : 男性

人物伝 ウィキペディアで 劉備 を調べる

劉 備(りゅう び、延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳げんとく。黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の蜀、魏、呉による三国鼎立の時代を生じさせた。明代の小説『三国志演義』では中心人物として登場する。

性格について
劉備は読書を甚だしくは楽しまず、狗馬や音楽、見栄えがある衣服を好んだ。言葉は少なく、よく人にへりくだり、喜怒の感情を表にださなかった。豪侠と交わることを好んだため、若者は争って彼についていった。成人頃には、文武も勉強もできるようになった。

風貌について
劉備は背丈が七尺五寸(約173センチ)、腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う。「蜀書」周羣伝には張裕に「潞涿君」(ひげの薄い人の意)とあげつらわれたとある。

呼称について
名を備。字を玄徳(げんとく)と言う。『三国志』(正史)では、劉備を諡号の昭烈帝ではなく、「先主」と呼んでいる。生存中、後主劉禅と一緒に「主公」と尊称されている。『演義』では、この呼び方は主君に対する敬称として広く用いられた。

系譜について
劉備は前漢の景帝の第9子、中山靖王劉勝(? - 紀元前113年没)の庶子の劉貞の末裔という。劉勝の子と孫を合わせると120人以上になり、劉備の祖とされる劉貞は、紀元前117年に涿郡涿県の列侯として陸城亭侯の爵位を賜った。だが、紀元前112年の年始(正月)頃に、彼は列侯のみに課された漢朝への上納金(酎金)を納めなかったために、侯国を除かれ、史書の系譜もそこで止まっている。
(続きは、ウィキペディアで)

ウィキペディアより

劉備の一族

劉備が登場する文献
  • 『蜀書』劉備伝

正史三国志データベース 三国検索 SANGOKU KENSAKU SINCE 2003

© 2003 Forumkj