呂 凱(りょ がい、生没年不詳)は、中国三国時代の武将、政治家。字は季平。子は呂祥。永昌郡不韋県の人。『三国志』蜀志に伝がある。 生涯 秦の時代に、呂不韋の一族や子弟は巴蜀の地に移住してきた。前漢の武帝の時代になって、不韋県が設立され、呂氏の一族がそこに移住し、異民族の教化政策の任を果たした。これが呂凱の先祖であると言われている(『蜀世譜』)。 呂凱は郡に出仕し、五官掾功曹となる。蜀漢を興した劉備が永安で死去すると、蜀を侮った雍闓等が呉と通じ反乱を起こした。 雍闓は呉により永昌太守に任命された。当時の永昌郡は、成都方面からの道が途絶していたが、呂凱は永昌郡の府丞である王伉と協力し、国境を閉鎖して雍闓の侵攻を防いだ。雍闓は檄文を度々送り脅迫したが、呂凱は道理を尽くして反論し、劉禅と諸葛亮に服属するよう、逆に雍闓等に勧めた。呂凱の威儀と恩愛は広く知れ渡っていたため、彼は永昌の地を守り抜き、節義を全うすることができた。 225年、諸葛亮は南征の軍を起こしたが、その前に雍闓は高定の部下に殺害された。諸葛亮は南中の地に到着すると、呂凱と王伉の功績を上奏し、賞賛した。
ウィキペディアより