呂 拠(りょ きょ、?-256年)は、三国時代の武将、政治家。呉に仕えた。呂範の子(次男)。字は世議。妻は孫奐の娘(孫壱の妹)。『三国志』では呉志「呂範伝」に付伝されている。 生涯 兄がいたが夭折している。父が呉の高官であったため、孫権に若くから郎にとりたてられ、呂範の病気が重くなると副軍校尉となり、父の軍務を補佐した。父が228年に死去すると、安軍中郎将に昇進した。 山越討伐で頭角を現し、彼が攻撃すると賊はたちまちのうちに敗れ去ったという。潘濬の武陵蛮の討伐にも従軍した。 魏との戦いにおいても活躍し、241年、朱然の樊城攻略に従軍し、朱異と協力して城外防衛陣を打ち破ったことが評価され、偏将軍となった(芍陂の役)。のちに宮廷に移って、馬閑右部督・越騎校尉となった。 二宮事件では魯王孫覇を支持したという。 250年、魏の文欽が偽の投降してきたため、これを見抜いた朱異の忠告を受け、孫権は呂拠に命じて2万人の兵士を引き連れて国境に赴かせたが、文欽は現れなかった。
ウィキペディアより