呂 虔(りょ けん、生没年不詳)は中国の後漢末から三国時代にかけての武将、政治家。魏に仕えた。字は子恪。兗州任城(現在の山東省済寧)の人。呂翻の父、呂桂の祖父。 曹操が兗州にいた頃、呂虔が大胆な策を立てるという事を聞いて、従事に取り立て、私兵を率いさせて湖陸(兗州山陽郡湖陸県。現在の山東省魚台と江蘇省沛の中間あたり)を守らせた。 その頃、東の襄賁(現在の山東省蒼山の東)において、襄賁校尉杜松の配下の炅母達が反乱を起こし、昌豨と同調した。曹操は襄賁校尉を杜松から呂虔に交代させて反乱を鎮圧させようとした。呂虔は任地に付くと炅母ら反乱の首謀者達を酒宴に招き、酔い潰したところで伏兵を呼び寄せ全員殺害し、反乱を鎮圧した。 その後、呂虔は泰山太守も兼任させた。当時の泰山郡は山と海に接する地勢もあって、避難民が各地に潜伏しており、さらに袁紹から中郎将とされていた郭祖・公孫犢とかいった山賊たちが山に拠って住民に暴行を働いていた。しかし呂虔が私兵を率いて就任すると恩愛と信義を示してこれを慰撫したので、郭祖達も全て山を降りて降伏した。
ウィキペディアより