呂 曠(りょ こう、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。兗州東平郡の人。 正史の事跡 袁紹の三男袁尚配下の大将で、呂翔も同僚の大将である。建安8年(203年)8月、袁尚に従って、袁尚の兄・袁譚を平原に包囲する。追い詰められた袁譚は曹操に降伏し、同年10月に曹操は袁譚の救援に向かったため、袁尚は平原の包囲を解いた。ところが、呂曠と呂翔は袁尚に反逆して陽平に駐屯し、まもなく曹操に降伏して列侯に封じられた。その後、袁譚は、呂曠と呂翔に将軍の印綬を授けて懐柔しようとしたが、2人ともそれには全く乗らなかった。それどころか呂曠は、この件を曹操に密告している。以後、2人とも史書には登場しない。 物語中の呂曠 小説『三国志演義』では呂翔の兄とされている。袁譚の説得を受けた後に兄弟で曹操に降った。列侯に封じられた件、袁譚からの将軍の印綬の件は、史実と同様である。その後、弟と共に曹仁配下に属し、曹仁に懇願して5千の兵で新野の劉備を襲うが、呂曠は趙雲の槍の一撃で討ち取られ、呂翔もまもなく張飛に仕留められた。
ウィキペディアより