楽 進(がく しん、? - 218年)は、中国後漢末期の武将。字は文謙。兗州陽平郡衛国の人。子は楽綝。孫は楽肇。『三国志』魏志に伝がある。 生涯 一番乗りの勇将 身体は小柄だが、性格が剛毅果断だったという。曹操が董卓に反抗して挙兵すると、楽進は曹操の下へ馳せ参じた。曹操は当初、楽進を武将ではなく帳下の吏(記録係)として用いていた。あるとき楽進を出身郡へ帰らせて兵を集めさせたところ、楽進は1000もの兵を引き連れ帰還してきたという。これにより曹操は楽進を武将として起用することにし、軍の仮司馬・陥陣都尉に任命した。 濮陽での呂布・雍丘での張超・苦での橋蕤(袁術軍の部将)との戦いでは、何れも一番乗りとしての戦功を立て、広昌亭侯に封ぜられた。安衆での張繍戦・下邳の呂布包囲戦では別将を破った。射犬での眭固攻撃・沛での劉備攻撃にも従軍し、全てを討ち破って討寇校尉に任ぜられた。 官渡の戦いでは黄河を渡り、于禁と共に歩・騎兵5000を率いて獲嘉にある袁紹側の陣営を攻撃した(「于禁伝」)。
ウィキペディアより