曹操の晩年、雍州では郡をあげて反乱するものが相次ぎ、武威の顔俊もその一人だった。顔俊は母と子を曹操の元へ送り、援助を求めたが、雍州平定に功のある張既はこれを一時的な帰順だと見積もり、曹操はこれに従って虎が食い合うのを待つかのように静観した。結局、顔俊は張掖の和鸞に殺されてしまった。