『ケイ康』より 嵆 康(けい こう、224年 - 262年あるいは263年)は、中国三国時代の魏の文人。字は叔夜。豫州譙国銍県(現在の安徽省宿州市)の人。竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。子は嵆紹・女子一人。 曹操の曾孫娘の長楽亭主(曹林の孫娘)を妻とし、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、嵆中散とも呼ばれる。 非凡な才能と風采を持ち、日頃から妄りに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり、鍛鉄をしたりするなどの行動を通して、老荘思想に没頭した。気心の知れた少数の人々と、清談と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めなかった。友人の山濤が自分の後任に嵆康を吏部郎に推薦した時には、「与山巨源絶交書」(『文選』所収)と書いて彼との絶交を申し渡した上で、それまで通りの生活を送った。ただし死の直前、子の嵆紹を山濤に託しているように、この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものであった。 嵆康の親友であった呂安は、兄の呂巽が自分の妻と私通した事で諍いを起こし、兄を告発しようとした。
ウィキペディアより