厳 畯(げん しゅん、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の学者、政治家。字は曼才。徐州彭城郡(現在の江蘇省徐州市)の人。子は厳凱・厳爽。従甥(いとこのこ)は厳武(八絶「江南八絶」の一人)。『三国志』の呉書に列伝が立てられている。 若年より学問に励み、『詩経』・『書経』・三礼(『儀礼』『周礼』『礼記』)に通じた。戦乱を避けて江東に移住した。同じく徐州より疎開してきた諸葛瑾や歩騭と親交を結び、共に呉の名士と交友して評判を得た。実直で純朴な人柄であり、他者に対しては真心をもって教え導き、その至らぬ点を補い助ける事を心掛けていた。 張昭の推挙により孫権に仕え、騎都尉・従事中郎となった。後に魯粛が死去すると、その後任として一万の兵を率いて陸口に駐屯するよう命じられた。だが厳畯が「自分は書生に過ぎず、軍事にも疎い。非才の者を起用すれば、後に悔いても及びません」と涙ながらに訴えたため、孫権も辞退を聞き入れ、魯粛の後任に呂蒙を起用した。世間では、よく己の器量を弁え謙譲した者であると褒め称えられた。またこの時、孫権は試しに厳畯を馬に乗せてみた所、すぐに落馬してしまったという(厳畯伝注引『志林』)。
ウィキペディアより