胡 質(こ しつ、? - 250年)は、中国三国時代の武将、政治家。魏に仕えた。字は文徳。父は胡敏(胡通達)。子は胡威・胡羆。孫は胡奕。『三国志』魏志に伝がある。 揚州の名士として蒋済・朱績(呉の朱績とは別人の可能性もある)と並んで名を馳せていた。父は徳の高い人物として知られていたという。蒋済が曹操に仕え揚州の別駕に任命されたとき、曹操は父胡敏の子孫について蒋済に尋ねて胡質のことを知り、即座に頓丘県令に登用した。そのときに蒋済から「父に品行と智謀の面では及ばないが、事務処理の精密さの面においては長けている」と評価された。 県で発生した殺人事件について、偽りの自白をした者がいたが、胡質は嘘を見抜いて厳しく吟味し、事実を明らかにして刑に服させた。その後、丞相東曹議令史となり中央に呼ばれたが、州の要請により治中として留まった。 当時の刺史は温恢であった。また近隣に張遼が駐屯していたが、張遼は武周と仲違いを起こしていた。あるとき張遼は胡質の評判を聞き、部下にしたいと温恢に申し出たことがあった。しかし胡質が病気を理由にそれを断ると、張遼はわざわざその理由を尋ねるために胡質の元へやって来た。
ウィキペディアより