胡 遵(こ じゅん、?-256年7月5日)三国志 (歴史書) 三国志魏書高貴郷公紀に記述は、中国の三国時代 (中国) 三国時代の魏 (三国) 魏の軍人。胡広・胡奮・胡烈・胡岐の父。胡淵の祖父。<br/>雍州安定郡の人。文武ともに優れ、張既の推挙でホウ育 龐淯や張恭らと共に魏に仕え、各地の戦役に参加して武功を挙げた。魏書に伝はない。子の胡奮の伝が晋書にある。<br/>233年、謀反を起こした匈奴の大人の胡薄居姿職を追撃し、撃ち破り、降伏させている。<br/>234年、蜀(蜀漢)の諸葛亮の北伐の際に、司馬懿に従い郭淮と共に迎撃の任にあたった。<br/>238年、司馬懿に従い牛金と共に公孫淵征伐に赴き、公孫淵の部将の卑衍、楊祚を破っている(遼隧の戦い)。<br/>252年、征東将軍の任にあり、呉 (三国) 呉の孫権の死去を受け、王昶 (曹魏) 王昶・カン丘倹 毌丘倹とともに上表文をたてまつり、呉討伐を請願した。同年、胡遵は揚州方面担当の将軍の諸葛誕と共に呉の東興を攻めるが呉の諸葛恪に迎撃され、丁奉の奇襲に遭い大敗した(東興の戦い)。<br/>
ウィキペディアより