『周キン』より 周 昕(しゅう きん、生没年不詳)は、中国の後漢末期の政治家。揚州丹陽郡の太守。字は泰明。揚州会稽郡の人。弟は周昂・周喁。『三国志』呉志「宗室伝」、及び「宗室伝」に引用された『会稽典録』に名がある。 生涯 若いときに都に行き、太傅の陳蕃に師事し、さまざまな書籍を読んだ。中でも占いに通じたという。太尉の役所に招かれ、高い席次で及第し、丹陽太守まで昇進を遂げた。 霊帝の没後、後漢朝が混乱し董卓が政権を握ると、それに反抗する勢力が関東で蜂起した。その一人である曹操に対し、揚州刺史の陳温と共に兵力を提供し、協力の姿勢を見せた。一万人以上の兵士を提供したといい、弟の周喁は曹操の軍師になったともいう。 初平4年(193年)頃から、揚州が袁術の進出により乱れると、周昕は袁術の残虐さを嫌って絶交し、兄弟でその侵略に抵抗した。弟の周昂は袁紹に与し、豫州刺史、後に九江太守として袁術方の部将である孫堅や孫賁と敵対したという。 やがて、周昂が守備する九江は孫賁に奪われ、周昕が守備する丹陽は呉景に奪われるなど劣勢になる。
ウィキペディアより