鍾離 牧(しょうり ぼく、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。呉に仕えた。字は子幹。揚州会稽郡山陰県の人。父は鍾離緒。兄は鍾離駰。子は鍾離禕・鍾離盛・鍾離徇。三国志呉志に伝がある。 生涯 漢の官僚(魯国の相)鍾離意の七世の孫に当たる人物である。『会稽典録』によると、父は楼船都尉であり、兄も上計吏であった。 兄は若くから、会稽の謝賛や呉郡の顧邵と同等の名声を有していたという。それに対し鍾離牧は、幼いときから口下手で鈍間な性格だった。兄は鍾離牧が大器であると周囲に述べていた。しかし、当時の人達は誰もそれを信じようとしなかったという(『会稽典録』)。 若いときに永興へ移住し、広範囲な土地の開墾に従事した。しかし収穫の時期、現地住民の中に土地所有権を主張する者が現れたため、争いとなった。鍾離牧は抗弁もせず、その者に土地と収穫物を譲ってやった。後に県長がその住民を収監し、法による処罰を行おうとしたが、鍾離牧はあくまでその住民を庇い、山陰に引き返そうとした。このため県長は鍾離牧を引き留め、住民を釈放した。その住民が以前横領した収穫物を鍾離牧に返却しようとしたが、鍾離牧はそれを受け取ろうとしなかった。
ウィキペディアより