石 苞(せき ほう、?-272年)は、中国三国時代から晋の軍人。魏・西晋に仕えた。字は仲容。 冀州勃海郡南皮県の人。子は石越・石喬・石統・石浚・石儁・石崇。孫は石超・石熙・石順。 生涯 学問に優れ、容姿も人並み以上であった。はじめは地元の県の小役人であり、御者の仕事や鄴の市場での鉄売りの仕事に従事していた。特に御者の仕事は鄧艾と共に行ない、『世語』によると鄧艾とは同い年で12歳から13歳ぐらいであったという。やがて郭玄信(郭誕の子)や許允といった名士に認められ、中央に出て立身出世するようになった。なお『世語』においては、青龍年間に長安で鉄売りをしていた際、司馬懿にその才能を見出され採り立てられたとしている。 司馬懿には、人格的に問題がある人物として軽く見られていたが、その子司馬師には才能を認められ重用を受け、中護軍司馬・太守を経て、徐州刺史に抜擢された。252年の東興の戦いにおいては、司馬師の弟司馬昭が監軍として参加していたが、東興の戦いで呉に敗れた味方が大敗する中で、軍勢を失わずに帰還した事が評価された。
ウィキペディアより