曹 據(そう きょ、生没年不詳)は、中国三国時代の魏の皇族。名は曹拠とも書かれる。父は曹操。生母は環夫人。同母兄弟は曹沖・曹宇。異母兄弟は曹丕(文帝)・曹整。子は曹琮・曹範・曹闡ら。 生涯 211年、父の功績により、後漢の范陽侯に封じられ、217年には宛侯となった。魏が建国されると、221年に公、222年には章陵王となったが、同年に義陽郡に転封となった。曹丕の配慮により、一時は母の故郷である彭城郡の王に転封されたが、すぐ済陰郡に転封となった。曹丕は224年に詔勅を出し、諸王の所領をすべて県単位まで削減する政策を表明した。このとき曹據は定陶県王とされた。しかし曹叡(明帝)の時代にこの政策は変更となり、232年には諸王の所領を郡単位まで拡張することになった。このため曹據は彭城王に戻ることができた。 237年、禁令を犯したため罪を得て所領の一部を削減されたが、239年に許され所領を返却された。以後も加増を得て、4600戸となった。 司馬師は曹據の従孫に当たる曹芳(斉王)を廃位した後、後継者の候補として曹據を推挙したが、曹叡の系統が断絶することを憂えた郭太后に拒絶されたため、曹丕の孫である曹髦(高貴郷公)を後継とした(「三少帝紀」が引く『魏略』)。
ウィキペディアより