張 休(ちょう きゅう、生没年不詳)は、中国三国時代の人物。呉に仕えた。字は叔嗣。父は張昭。兄は張承。『三国志』「張昭伝」に付伝されている。 若くして孫権に仕えた。張休が20歳頃の時、孫権が呉王になったため、その太子となった孫登の側近として、諸葛恪・顧譚・陳表と共に採り立てられた(孫権が即位し、孫登が皇太子になると、彼等4人は太子四友と呼ばれた(「呉主五子伝」)。)。張休は父から『漢書』の講義を受けていたため、孫権に見込まれて孫登に『漢書」を講義するよう要請された。『呉書』によると、張休の発言が全て筋道立っていたため、孫登は張休に対して君臣の礼を超えた友誼を示したという。後に中庶子となり、右弼都尉となった。 孫権が狩猟に出ると、上疏してこれを諌めた。孫権はその文章が優れていたため、父の張昭に見せて張休の才能を褒め称えた。 父が236年に没した時、兄が既に功績を立て別に爵位を得ていたので、父の爵位を継承した。 孫登が死去すると、太子府から離れて侍中となり、羽林都尉として三典軍を指揮し、揚武将軍に昇進した。
ウィキペディアより