張 楊(ちょう よう、? - 198年)は、中国後漢時代末期の武将、政治家。字は稚叔。并州雲中郡(現在のモンゴル自治区にあるフフホト)の人。張揚と記される例もある。『三国志』魏志に伝がある。 正史の事跡 挙兵と自立 霊帝の時代、武勇で名を知られるようになり、武猛従事として採り立てられて并州刺史の丁原に属した。 後に霊帝は中央の常備軍(西園軍)を整備し、軍を指揮する上軍校尉に寵愛する蹇碩を任命すると共に、各地から軍勢を集めさせた。張楊は丁原の命令で并州の軍勢を指揮して上京したところ、蹇碩に招かれ仮司馬に任命された。 霊帝が崩御し、蹇碩が何進に殺害されると張楊は何進に属し、故郷の并州に戻って募兵を命じられた。1000人余りの兵を集め、上党郡に留まって山賊を討伐した。 何進が死去し董卓が政権を握ると、張楊は壷関にいた上党太守に攻撃を加えたが、落すことができなかったのでそのまま近隣の県を侵略し、軍勢を数千に膨れ上がらせた。
ウィキペディアより