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陳蘭

  • 人物番号: 2531
  • 姓 名 : ちん らん
  •  字  : 
  • 出身地 : 廬江郡ろこうぐん
  • 生没年 : ? ~ 209
  • 性 別 : 男性

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陳 蘭(ちん らん、? - 209年)は、中国後漢時代末期の武将。揚州廬江郡の人。『後漢書』袁術伝では、「陳簡」とされている。『三国志』魏書袁術伝等に記述がある。陳蘭は雷薄と同僚で、共に袁術の部曲であった。袁術は帝位を僭称したものの、暴政を敷いたため人心を失い、呂布や曹操との戦いに敗れて零落した。一方、陳蘭と雷薄は袁術の下を出奔し、灊山(せんざん)に立て篭もっていた。建安4年(199年)、袁術が雷薄と陳蘭を頼ってきたが、陳蘭らは袁術を受け入れなかった。袁術はやむなく袁紹の子袁譚を頼り、青州へ向かったものの病死することになった。建安5年(200年)冬、陳蘭・梅乾(梅成のことか、あるいは梅成の縁者か)・雷緒(雷薄本人か、あるいは雷薄の縁者か)は、廬江太守であった李術(または李述)が揚州刺史厳象を殺して管轄地域が混乱した隙に、数万人の兵を集めて長江・淮河一帯で暴れまわった。しかし、曹操が派遣した新任の刺史の劉馥が合肥に赴任し入城すると、梅乾・雷緒らはこれに降伏した(陳蘭の動向は不明である)。建安14年(209年)、陳蘭は盟友の梅成と共に再び灊山に立て籠もり、孫権とも結んでその将軍韓当の救援を受けた。しかし陳蘭・梅成は、曹操の命を受けた張遼・于禁・張郃・臧覇らの討伐を受け、張遼の猛攻の前に敗北、2人とも張遼によって斬られてしまった(『三国志』魏書張遼伝・于禁伝・張郃伝・臧覇伝)。

ウィキペディアより

陳蘭の一族
    No Data

陳蘭が登場する文献
  • 1-504,3-97,3-215,3-224,3-228,3-250~251.

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