鄭 玄(てい げん、127年(永建2年) - 200年(建安5年))は、中国後漢末期の学者。青州北海郡高密県(山東省高密市)の出身。字は康成。父は鄭數。子は鄭益(字は益恩)。孫は鄭小同(字は子真)。 生涯 鄭玄の八世前には、哀帝の時に尚書僕射まで昇進した鄭崇がいる。 鄭玄は邑里の小役人に過ぎなかったが、貧窮を物ともせず学問に励んだ。役人としての仕事には熱心ではなかったので、父は怒ったが、学問を禁止する事はできなかった。22歳で太学へ進んだ。京兆の第五元先から『京氏易』・『公羊春秋』・『三統歴』・『九章算術』を学んだ。さらに東郡の張恭祖から『周官』・『礼記』・『左氏春秋』・『韓詩』・『古文尚書』の講義を受けた。 鄭玄はそれだけに飽き足らず、当時一流の儒学者だった馬融の元に盧植とともに留学した。馬融はたくさんの弟子を抱えており、元々驕貴な性格でもあった。このため、鄭玄は3年間も馬融に会う事すら叶わず、その弟子から指導を受けるに甘んじた。鄭玄は日夜を通じて学問に打ち込んだ。後に馬融との対面がようやく叶った鄭玄は、馬融の質問によく答えたため、馬融から感心された。
ウィキペディアより