杜 襲(と しゅう、生没年不明)は、中国後漢末期から三国時代の武将、政治家。魏に仕えた。豫州潁川郡定陵県の人。字は子緒。曽祖父は杜安。祖父は杜根。兄は杜基。子は杜会。 曽祖父と祖父は名声の高い人物であり、その没後は、県の高官が着任後に揃って彼らの墓地に出向くのが恒例となったという。 杜襲は若い頃、陳羣・辛毗・趙儼と並んで名が知られていた(「趙儼伝」)。まもなく同郡の繁欽や趙儼らとともに、戦乱を避け荊州へ避難することになった。繁欽らとは住居を共にし、会計を一つにしたという(「趙儼伝」)。 やがて劉表から、杜襲らは賓客として遇されるようになった。だが杜襲は劉表を評価せず、さらに友人の繁欽が劉表に厚遇されていたことも非難し、絶交をほのめかした。繁欽は杜襲の言葉に従った。 その後長沙に赴いたが、曹操が献帝を許都に迎えると郷里に戻り、曹操の任命で荊州に隣接する西鄂県長となった。その地は賊の侵入で荒れ果て、人々は城に立て籠もらざるを得ず、満足に農耕もできない状況であった。杜襲は恩愛のある政治を弁えていたので、老人と若者に農耕へ従事させる一方で、強壮な者を兵士にし守備に就かせた。
ウィキペディアより