歩 闡(ほ せん、? - 272年)は、中国三国時代の呉の武将。字は仲思。父は歩騭。兄は歩協。甥は歩璣・歩璿。 兄の死後、後を継ぎ西陵督となり、加えて昭武将軍を拝命し、西亭侯に封ぜられた。 272年、孫皓から繞帳督に就くよう武昌に戻れとの命があった。しかし、突然の召還命令であったため、歩闡は讒禍を恐れて西陵の城に籠り、晋に投降してしまった。晋は歩闡が都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司(三公と同様の礼遇を受けた)の職位であったため侍中とし、仮の交州牧を兼任させ、宜都公に封じた。 怒った孫皓は陸抗に命じて西陵を攻撃させた。歩闡は晋軍に救援を要請し、資材を投げ打って蛮族にも協力を仰いだ。しかし、歩闡を援護した晋の羊祜らは陸抗に撃退され、西陵城は孤立無援となりやがて陥落した(西陵の戦い)。敗れた歩闡は処刑され、また人質として洛陽に送っていた甥二人のうち、洛陽に留め置かれた歩璿を除いた一族も皆、落城後に処刑された。 注釈 ==。
ウィキペディアより