濮陽 興(ぼくよう こう、? - 264年)は、中国三国時代の政治家。呉に仕えた。字は子元。父は濮陽逸。兗州陳留郡の人。『三国志』呉志に伝がある。 父は戦乱を避けて北方から避難し、陸瑁に庇護されたという(「陸瑁伝」)。 若い頃から士人の間で高く評価された。孫権に仕え、上虞県令となり、その後、尚書左曹となった。五官中郎将に任じられ蜀漢への使者となり、帰国後に会稽太守に任命された。 当時、琅邪王の孫休は丹陽から会稽に住まいを移していたため(「三嗣主伝」)、太守であった濮陽興は孫休と非常に親しくなった。 257年、濮陽興はかつて会稽太守であった王朗が、会稽の優れた人物について虞翻と問答していたことを知った。このため、役人を集めた席で問答の内容について尋ねたところ、門下書生であった朱育が返答した。濮陽興は朱育に対し、会稽の人物と土地について問答させた。朱育の返答が見事であったため、これを賞賛したという(『会稽典録』)。 孫休が即位し、孫綝一族を粛清して実権を回復すると、旧知であったため呼び寄せられ、太常・衛将軍・外黄侯となり、軍事・国事全般を任された。
ウィキペディアより