来 敏(らい びん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。字は敬達。荊州義陽郡新野県の人。来歙の末裔。父は司空の来艶。姉は黄琬の妻。子は来忠。
経歴
後漢末の大乱に遭遇し、姉とともに荊州へ逃れた。黄琬は劉璋の祖母の甥だったので、姉弟揃って劉璋に賓客として迎えられた。劉備の益州平定後は劉巴の推挙で劉備に仕え、典学校尉として許慈や孟光とともに宮中儀礼の制定に当たった。劉禅が立太子されると太子家令に任命され、即位後は虎賁中郎将に任命された。漢中にいた諸葛亮の要請で軍祭酒・輔軍将軍に就任するが、問題を起こして免職された。諸葛亮の死後、成都に戻って大長秋となるが再び免職された。官に復帰して光禄大夫に昇進したが、過失を犯してまたしても免職された。その後、官の重さを自覚し自戒するよう、執慎将軍に任命される。景耀年間(258年 - 263年)に97歳で亡くなった。子の来忠が跡を継ぎ、姜維の参軍となった。
人物・逸話
書物を広く読み漁り、『三倉』・『広雅』の訓詁学に最も詳しく、文字を校正することを好んだ。『左氏春秋』に通じ、『公羊春秋』を好んで『左氏春秋』に批判的だった孟光とは、たびたび激しい論戦を繰り広げていた。244年、来敏は出陣直前の費禕を訪ねて囲碁の対局を申し出た。出陣の準備が終わっても勝負に夢中な費禕を見て、来敏は「この度胸の据わり具合ならば、いざ前線にあっても何の心配も要らないだろう」と感嘆の意を表した。果たして費禕は見事に魏軍を撃退した。言葉に節度がなく行動が異常であったため、たびたび免職や降格にあった。 しかし、来氏は荊州の名族であり、劉禅が太子だった頃からの臣下であったため、そのたびに復職することができた。陳寿は「来敏は博学で知られ、徳行で称賛を受けることはなかったが、一代の学者であった」と評している。