李 福(り ふく、? - 238年)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての政治家。字は孫徳。父は豪族の李権(伯豫)。子は李驤。孫は李寿。益州梓潼郡涪県の人。 父は劉焉が益州牧として赴任した時、その命令に逆らい激怒した劉焉に惨殺された。当時、李福はまだ成人していなかったと思われる。 194年、劉璋が継いだ後に仕官したと思われる。215年夏5月、劉備が益州を占領すると、書佐から西充国長・成都令・巴西太守・江州都督・揚威将軍に昇任した。 劉備死後、諸葛亮から尚書僕射に任命され、平陽亭侯に封じられた。234年、五丈原の本陣に勅命で見舞いに赴き、諸葛亮から国家の後事と後任の丞相を蔣琬に任すべきだとの遺命を受けた。238年、魏を討伐するため蔣琬に従い、前監軍・司馬として漢中の南鄭城に駐屯したが、突如急死した。 『三国志』において、陳寿は彼を「緻密な知識を持ち、決断力に富んでいた。大志を持っており、蜀の支えとなる人物であった。…」と評価している。 ただ、この陳寿の評はある意味矛盾している点もある。『蜀書』巻十五「鄧張宗楊伝」の楊戯伝には、子の李驤の事項が何一つ記述されていない。
ウィキペディアより