李 膺(り よう、生年不明 - 169年)は、中国の後漢時代の官僚。字は元礼。潁川郡襄城県の人。本貫は趙郡。祖父の李脩は安帝時期の太尉。父の李益は趙国の相であった。子は李瓚。生まれつき礼法にこだわらず、亢然としていて人と交際しなかったという。ただ同郡の荀淑・陳寔らを師友とした。166年、一回目の党錮の禁がおこり、成瑨らが殺され、李膺・杜密・陳翔ら200人あまりが下獄された。太尉の陳蕃は李膺らの起訴状が三府に送られてきた時、「今、調べている人たちは、みな海内の褒め者で憂国忠義の臣。これらの者にたとえ罪があったとしても、10代後まで恩赦にあってしかるべきである。罪名がいまだ明らかになっていないのに召捕って拷問にかけることがあるか」と言い署名しようとしなかった。帝は大いに怒って彼は免職になった。宦官の多くは、李膺らの答弁のなかで、度々宦官の子弟が引き合いに出されるので、不安になり、帝に天変を理由に赦免したほうがいいと願い出て、翌167年、放免し李膺は郷里に帰った。荀爽は李膺が高名であるので禍を招くのではないかと心配し節を屈して乱世を生き延びさせたいと思い手紙を送った。数ヶ月して桓帝が崩御し、陳蕃が太傅になり、大将軍竇武とともに政治を取り仕切るようになると二人で協力して宦官勢力を排除しようとした。そこで多くの天下の名士を登用した。李膺は長楽少府になった。しかし168年、逆に竇武・陳蕃ら両名は殺され、李膺はまた野に下った。169年、張倹の事件が起こり、党人が逮捕されることになり、郷里の人は李膺に「お逃げくだされ」と言ったが、彼は「君に仕えては難を辞せず、罪あっては刑を逃れぬのが臣下の節操というもの。わしはもう六十、死ぬも生きるも天命じゃ。逃げて一体どこへ行こうぞ?」と言い、詔獄へ自首した。彼は拷問にかけられ、死んだ。彼の妻子は辺境に移され、門人・下役、およびその父兄まで禁錮となった。
ウィキペディアより