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陸禕

  • 人物番号: 3196
  • 姓 名 : りく 
  •  字  : 
  • 出身地 : 出身地不詳
  • 生没年 : ? ~ ?
  • 性 別 : 男性

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陸 禕(りく い、? - ?)は、中国三国時代の呉の政治家・武将。揚州呉郡呉県の人。父は陸凱。叔父は陸胤。従弟は陸式。陸遜の一族。

生涯
陸禕ははじめは黄門侍郎を務め、その後地方に出て兵士をあずかり、偏将軍に任ぜられた。宝鼎元年(266年)12月、陸凱は、大司馬丁奉・御史大夫丁固と謀り、孫晧が廟に謁でるときをとらえて、孫晧を廃して孫休の息子を帝位に即けようとくわだてた。もともと宗廟に参詣するときには、適当な者を選んで大将軍の任を兼ねさせ、三千の兵を率いて護衛に当たることになっていた。陸凱は、この護衛の兵でもって事を起そうと考え、選曹に命じて丁奉にその任に当てるようにと上申させた。孫晧はたまたまこの上申が気に入らず、「別の者を選ぶように」と却下した。陸凱は、選曹の役人に指示して、「しばらくの間の大将軍の兼任だとはいえ、ちゃんとした人物をそれに当てねばなりません」と主張させた。孫晧は「それならば、留平を用いるがよい」と命じた。このようにして留平の任用が決まると、陸凱は陸禕に命じて留平に孫晧廃位の謀りごとのことを伝えさせようとした。留へいは平素から丁奉とは仲が悪く、陸禕がまだ陸凱から伝えるようにといわれたことづけを口に出さぬ先に、留平のほうから陸禕に「聞けば野猪が丁奉の陣営に入りこんだそうだが、これは不吉なことが起こる知らせだ」といって、嬉しそうな顔をした。陸禕は、こうした様子を見て、謀りごとのことは口に出さぬまま戻り、くわしく陸凱にその事情を申し述べた。そのために計画は立ち消えになったという。建衡元年(269年)、陸凱が亡くなると、陸禕は中央にもどって太子中庶子となった。右国史の華覈が上表をし、陸禕を重く任用すべきだと推薦して次のようにいった。「陸禕は、その天与の資質が剛直であり、くじけることのない実行力を備え、人々を率いていく才能は、魯粛だとて彼に勝るものではございません。ご召喚の命を受けて長江を下ることになりましたときにも、まっすぐ都に戻り、武昌を通っても、いささかもそこでぐずぐずすることなく、兵器や軍糧は、これっぽっちも私することがございませんでした。戦陣にあっては果敢であり、財貨に対しては節度を備えておるのでございます。夏口の地は、敵方の攻撃が集中してくる場所であって、名将を選んでこの地の守りに当たらせねばなりません。臣がひそかに思い込みまするに、陸禕以上の適任者はございません。」しかし陸禕をはじめとする陸凱一族は、何定の度重なる讒言によって孫晧にはこころよく思われておらず、陸抗が亡くなると、天冊元年(275年)、陸禕とその家族は、従弟の陸式や陸凱一族とともに建安に強制移住させられたという。
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ウィキペディアより

陸禕の一族
    No Data

陸禕が登場する文献
  • 8-25~27,8-45.

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