劉 義遜(りゅう ぎそん、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の政治家。「義遜」は名か字かは不詳である。
事跡
北海太守孔融の配下。『三国志』魏書崔琰伝注に引く『九州春秋』にのみ名が見える。劉義遜は同僚の左丞祖と共に、孔融配下では清廉な俊才との評判があった。しかし孔融は、2人を顧問の座につけるだけで要職につけず、しかも2人とも民からの声望が厚いため、他国に送るわけにはいかないと考えていた。代わりに、過激な議論はするが才能に乏しい王子法、劉孔慈が、孔融の腹心として寵愛された。何の展望も策略も無く孤立を保つ孔融を、左丞祖が諌めたが、かえって怒りに触れて誅殺されてしまう。これを見た劉義遜は、失望の余り逃亡した。結局、建安4年(199年)頃になって、孔融は袁紹の子袁譚の攻撃を受けて敗北している。なお、劉義遜は小説『三国志演義』に登場しない。