呂 岱(りょ たい、161年 - 256年)は、中国三国時代の呉の武将。字は定公。子は呂凱(蜀の呂凱とは別人)。広陵郡海陵の人。 生涯 郡や県の役人をしていたが、戦乱を避けて江東に疎開し、孫権の時代にその幕府に仕え、呉県の丞となった。孫権は諸県の長や丞を呼び寄せ、地方の行政について質問をすることがあったが、そのときに呂岱の受け答えを見て、わが意を得た人材と思い、幕府に呼び戻して録事とした。 のちに再び地方に出て余姚県の長となると、精鋭を募り1千人の兵士を集め配下とした。会稽、東冶など5つの県の不服従民が呂合や秦狼を首領として反乱を起こしたとき、呂岱は孫権から督軍校尉に任命され、将軍の蒋欽と協力してこれを鎮圧した。この功績により昭信中郎将に任じられた。 211年、兵士2千人を率いて西に遠征し、漢中の張魯を漢興郡の寋城に誘い出そうとしたが、張魯は警戒し道を塞いだため失敗し、孫権の命令により帰還した(『呉書』)。この帰りの途上で、蜀侵攻途上の劉備と白帝辺りで出会っている記述が残っている(「呉範伝」)。
ウィキペディアより