盧 欽(ろ きん、? - 278年)は、中国三国時代の魏から西晋にかけての政治家・軍人。字は子若。幽州范陽郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)の人。祖父は盧植(後漢の侍中)。父は盧毓(魏の司空)。弟は盧珽。子は盧浮。『晋書』に伝がある。
経歴
祖父や父がそれぞれ活躍するなど、代々儒学を家業として高官を輩出していた。盧欽は清淡な性格で見識深く、経史をよく学んだ。孝廉に推挙されたが応じず、後に魏の曹爽に召し出されて掾となった。ある時、曹爽の弟が彼の評判を聞き、配下に迎えたいと申し出た。だが盧欽は、曹爽の弟が法を幾度か犯していることを指摘して、これを拒否した。曹爽は深くこれを受け容れ、弟を罰した。その後、尚書郎に昇るも曹爽が司馬懿に誅殺される(高平陵の変)と、一時免官となった。しばらくして復帰し、侍御史となり父の爵位である大利亭侯に封じられた上で、琅邪太守に任命された。司馬懿が太傅になると、盧欽は召還され従事中郎となった。しかしその後、再び地方に出て陽平太守となり、淮北都督・伏波将軍に昇進した。盧欽の治績は非常に優れており、周囲の人々から大きく称えられた。このため散騎常侍となり、大司農・吏部尚書に任ぜられ、さらに大梁侯に昇進した。司馬炎(武帝)が即位して晋が成立すると、盧欽は都督河北諸軍事・平南将軍となり、仮節を与えられた。盧欽の統治は優しさと厳しさの中庸を得ており、彼が地方に赴いている間は辺境の動揺が鎮まったという。洛陽に戻ると尚書左僕射になり、侍中を加えられ、奉車都尉・吏部を兼ねた。盧欽の生活は清貧だったため、司馬炎より絹百匹を賜ったという。盧欽は才能によって人材を推挙し、廉正な政治を実現したとして称賛を受けた。278年に死去し、元と諡された。子が後を継いだ。
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