高句麗の王。父伯固の死後二人の息子が残されたが、後継者共議の結果、長男の抜奇は愚かであったため、次男の伊夷模を王に立てた。抜奇はそれを恨んで国に背き、3万の民を率いて中国の公孫康の元に降伏したため、伊夷模は別に都を建てた。