袁忠が沛国の相であったとき、法によって曹操を処罰しようとしたことがあった。沛国の桓邵も曹操を侮辱した。その後、曹操が兗に割拠し、あるとき陳留の辺譲の議論に気分を害された曹操は、辺譲とその家族を皆殺しにした。桓邵は袁忠とともに交州に避難したが、曹操は太守士燮のもとへ使者を送り、桓邵と袁忠の一家すべて皆殺しにした。桓邵は死に際に謝罪したが許されなかった。