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周瑜 公瑾

  • 人物番号: 0553
  • 姓 名 : しゅう 
  •  字  :  公瑾 こうきん
  • 出身地 : 廬江郡ろこうぐん 舒県じょけん
  • 生没年 : 175 ~ 210
  • 性 別 : 男性

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周 瑜(しゅう ゆ、拼音: Zhōu Yú チョウ ユ、175年 - 210年)は、中国後漢末期の武将。字は公瑾(こうきん)。渾名は周郎。揚州廬江郡舒県(現在の安徽省六安市舒城県)の人。高祖父は周栄。従祖父は周景。従父は周忠。父は周異。子は周循・周胤・周妃。妻は小喬。

孫策との出会い
廬江郡の周家は後漢朝において、高祖父の周栄が尚書令になったのを始めに、従祖父の周景・従父の周忠が三公の1つである太尉を務めた名家である。父の周異も洛陽県令となっている。周瑜は成人すると立派な風采を備えるようになった。孫堅が反董卓の連合軍に参加した際、彼の息子孫策の名声を聞いた周瑜は寿春に赴き、孫策と面会した。同い年の両者は親交を結んだ。孫策に舒への徙居を勧め、孫策はこれに従った。周瑜は大きな屋敷を孫策の一家に譲り、家族同然の付き合いをしたという。興平元年(194年)、袁術の下にいた孫策は劉繇を攻略するため江東へ軍を挙げた。丁度その頃、従父の周尚が丹陽太守に任命されていたので、周瑜はご機嫌伺いに出向いていたが、孫策から誘いの手紙が来たため、周瑜は兵士を連れてこれに従った。孫策に従って横江・当利、さらに秣陵を攻略し、湖熟と江乗を通って曲阿に進み、劉繇を敗走させた。孫策の軍勢は数万に膨れ上がり、孫策は独力で呉と会稽を攻略できると判断し、周瑜には丹陽の守備を任せた。袁術は丹陽太守に従弟の袁胤を送り、周尚と周瑜を寿春に召喚した。袁術は周瑜を配下に迎えようとしたが、周瑜は袁術の先行きに見切りを付け、居巣県の長になることを願い袁術の下を離れ、やがて198年頃に呉に帰還した。その頃、魯粛と親交を結び、呉への亡命にも同行させている。孫策は周瑜を歓迎し、建威中郎将に任命し、兵士2000人・騎馬50匹を与えた。さらに軍楽隊や住居を与えるなどその待遇は並外れていたといい、孫策はかつて丹陽で周瑜に受けた恩に報いるためには、これでもまだ足りないと述べたという。人々は当時24歳の若い周瑜を周郎と呼び称えていた。呉郡での名声の高さを買われて、牛渚の守備を任され、後には丹陽郡の春穀県の長にも任命された。建安4年(199年)、孫策は荊州攻略を考えるようになり、周瑜を中護軍に任命し、江夏太守の職務を任せ、攻略に当たらせた。廬江の皖を攻め落とした時、喬公の2人の娘を捕虜にした。孫策は姉の大喬を、周瑜は妹の小喬を妻に迎えた。 尋陽まで軍を進めて劉勲を破り、江夏を討伐、さらに豫章と廬陵も平定した。周瑜は巴丘に駐屯した。

孫権を補佐
建安5年(200年)に孫策が急逝し、孫権が後継者となった。周瑜は軍勢を引き連れて葬儀に参加すると、そのまま呉に留まり、張昭と共に様々な諸務を取り仕切ることとなった。この頃、諸将や食客の中には後を継いだばかりの孫権を軽んずる者もあった。周瑜は孫権に率先して臣下の礼を取り、規範を示したため、周囲もそれに従うようになった。なお周瑜は在野の魯粛の母親の身柄を呉に移していた。周瑜は孫権の王者としての資質と江南の天運の存在を挙げ、魯粛を説得した。魯粛は北へ戻ることを思いとどまり、周瑜の推挙により改めて孫権に仕官した。建安7年(202年)、官渡の戦いで袁紹を破り勢いのあった曹操が、孫権の元に使者を差し向け人質を送ってくるよう命令した。孫権は群臣達に議論をさせたが、張昭や秦松といった参謀達もはっきりとした意見を出せなかった。孫権は心の中では人質を送りたくないと考えていたことから、母親の呉氏の元に周瑜一人を連れて、その席で議論をしようとした。周瑜は、人質を送らずこのまま力を蓄えて天下の情勢を見極めるべきと述べ、呉氏もこれに同調した。孫権はこれに従った。呉氏も孫権に対し、周瑜を兄として仕えるよう命じていた。建安11年(206年)、周瑜は孫瑜の軍の目付けとして山越討伐を行い、麻・保の2つの屯所を攻略して一万人余りの捕虜を得た。その後、江夏太守の黄祖が部将の鄧龍を使って、孫権軍の前線基地であった柴桑を攻撃したが、周瑜はこれを迎撃、鄧龍を生け捕りにして江東に送還した。黄祖陣営から甘寧が投降し、孫権に対し黄祖征伐を提案すると、周瑜は呂蒙とともにこれに賛同した。建安13年(208年)春、孫権は江夏を討伐し、周瑜は前部大督(前線総司令)に任命された。

赤壁の戦い
建安13年(208年)9月、曹操が荊州に侵攻し劉琮を降伏させた。これを受けて孫権陣営では曹操に降伏するか抵抗するかで論争が起きた。曹操は兵士数万を有しており、劉表の整備した荊州水軍も手中に治めていたため、孫権陣営では降伏論者が多数を占めていた。周瑜はその時鄱陽への使者に出向き呉を留守にしていたが、主戦論者の魯粛に呼ばれ急いで帰還した。内緒の会話で既に必勝の自信を持った周瑜は孫権に「曹操を破ったら、長江上流は私たちのものです」と進言し、孫権はこれに同意した。後に群臣の会議で曹操を漢の賊と呼び、それへの抗戦を主張し、曹操軍が抱える数々の不利と、自軍の利を降伏の群臣に説いた。周瑜は「曹操が自ら死ににやってきたというのに、それを迎え入れることなどありましょうや?将軍(孫権)の御為に計略を立てることを許されたい」と言った。抗戦派の孫権は曹操に対抗することを決断し、3万の精兵を周瑜や程普らに与え、曹操から逃れてきた劉備と合流した。劉備は樊口(孫権の領地)に駐屯し、毎日、見張りを河辺に立たせて、孫権軍を待っていた。周瑜の船隊を見えた劉備はすぐさま一艘の小舟に乗って、周瑜に「今、曹操に抵抗するのは、まさしく計略の決定です。兵卒はいかほどおありか?」と訊ねた。周瑜が「三万人です」と言ったので、劉備は「残念ながら少なすぎる」と言うと、周瑜が「これで充分です。豫州(劉備)どのは、周瑜が敵を打ち破るのをゆっくり見てください!」と言った。劉備は内心では周瑜がを必ず撃破できるとは信じられなかった。そのため後方に下がって、二千の兵をひきいて関羽、張飛とともに動かず、周瑜に協力しようとはしなかった。赤壁の水上で曹操軍を迎撃させた。周瑜の予測通り、この時曹操軍は軍中に疫病を抱えており、一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げた。周瑜らは長江南岸(赤壁)に布陣し、部将黄蓋の進言を採用して、曹操軍艦船の焼き討ちを計画した。降伏を偽装して接近に成功した黄蓋が、曹操軍の船団に火を放つと忽ち燃え広がり、岸辺の陣営に延焼した。次に烏林陸岸で孫権・程普・呂蒙・甘寧・凌統・韓当・周泰らは周瑜に随行して追撃を加えて曹操軍を打ち破った。被害が多数に及んだ曹操軍は、引き返して荊州の南郡に籠った(赤壁の戦い)。周瑜が劉備と追走すると、曹操は曹仁と徐晃を江陵の守備に、楽進を襄陽の守備に残し、自らは北方へ撤退した。
(続きは、ウィキペディアで)

ウィキペディアより

周瑜の一族

周瑜が登場する文献
  • 2-155,2-486,3-233,3-246,5-41~44,5-112,5-194,5-196~197,6-31,6-51~52,6-73,6-78~79,6-241~243,6-246,6-294,6-310,6-315,6-321,6-353,7-24,7-47,7-70,7-72~73,7-78~82,7-85,7-88~89,7-91,7-105~106,7-111~112,7-115,7-117,7-122,7-134,7-137,7-143,7-175.

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